2020.05.12
カルロ・チポラ『ペストと都市国家』(平凡社刊)
■コロナ禍の読書
今回のコロナ禍でイタリアはかなりの感染者が出ましたが、実はイタリアは世界史的に見ると、感染症を防ぐ公衆衛生行政の先進国だったのです。
ペストのパンデミック(大流行)がヨーロッパであった14世紀前半以降のルネサンス期に、ヴェネツィアやミラノなど主な都市国家では、検疫や感染地域での交通の遮断、隔離施設の設置、さらには違反者の逮捕・処罰まで至る広範な業務に取り組む先進的な行政組織として「公衆衛生局」が世界に先駆けてつくられました。他国と商品などを取引する貿易国家として、常に輸入品ともに入り込む恐れがある病原体を水際で食い止めることは喫緊の課題であったことが背景にあったと思います。
1347年から4年間、ヨーロッパに猛威を振るったペストの感染拡大に歯止めをかけるため、ヴェネツィアが14世紀後半に設置したのが始まりですが、恒常的な組織をつくったのは15世紀前半のミラノが最初といわれています。
国家から与えられた強大な権限をもとに、今と同じように外出や営業制限などの厳しい規制策を当時の市民や商業者らの反発を買いながらも実施していました。
本書は、徹底的な史料解読に基づき、そうしたあまり知られていないペストとの戦いに挑んだ公衆衛生組織の取り組みの歴史を教えてくれます。残念ながら品切れですが、間違いなく名著と言ってよいと思います。
「感染防止と経済活動」。驚くのは、いま世界中で大きな騒ぎになっているこの問題に、既にルネサンス期イタリアの衛生局が心を砕いていたことです。
「衛生官たちは、衛生上の措置によって利益が損なわれる多くの人々の広範な敵意にも直面しなければならなかった。しかし何といってももっとも重要なのは、衛生官たちが自身の内面において闘わなければならなかったことである。すなわち、公衆衛生上の利益が、衛生官たちが奉仕すべき対象である共同体の死活を制する経済的利益と激しく衝突したからである。」(93ページ)。
そうしたことから、「多くの場合に衛生官たちが職務上の立場を妥協させた動機の一つに、公衆衛生上の方策を厳密に適用すると、経済に多大の損失が生じることを理解していた点があげられる。」(同ページ)というのです。何と、いま耳にしているような話じゃありませんか。
このように命と経済の板挟みになりながらも、いまと同じく、当時も自宅待機者への補助金を出したり、検疫中の人々への食料提供、さらには感染者の日用品焼却に伴う補償金支払いなどもしていたというのです。まったく、今と変わりません。
当時はまだ残念ながら、ペストの病因がネズミやそれに寄生するノミであることに気づくことはできませんでした。ただ、本書はそれでも、市民や商人らの所有品や商品などの消毒対策をしたことは有用だったとし、さらに全面的な検疫実施などを含め、現代にも通用する衛生行政組織としてイタリアの衛生局の先進性を高く評価するのです。
ペストの流行とともに誕生した衛生局は、ペストが消失した18世期になくなりましたが、そのレガシーはイタリアではなく、英国とフランスによって、現代の公衆衛生に引き継がれたと結んでいます。
著者のカルロ・チポラ(Carlo Cipolla、イタリア語的にはチポッラという発音になる)はイタリアが生んだ世界的に知られた経済史家です。1922年、ミラノに近い古都パヴィアに生まれ、1953年にアメリカに渡り、カリフォルニア大学バークレー校教授を長く務めたほか、ふるさとの名門パヴィア大学の教授も務めました。2000年に78歳で亡くなりました。
広く社会史の分野で数多くのユニークな本を世に送りました。
日本語訳も本書のほか、『経済発展と世界人口』、『時計と文化』、『読み書きの社会史〜文盲から文明へ』、同じくペストと公衆衛生組織を扱った『シラミとトスカナ大公』、『大砲と帆船〜ヨーロッパの世界制覇と技術革新』、果てはイタリア人らしい陽気さが窺えるエッセイ『陽気に でもほどほどに』と多いです。残念なから、現在のところ、すべて品切れ。
本書を知ったのはお恥ずかしながら最近で、しかも嬉しい偶然でした。
実は前回ご紹介しましたマンゾーニの『いいなづけ』のペストに触れたところに盛んに「衛生局」という言葉が頻発して出てくるので、これはどんな組織なのかなと思っていました。
そうしたところに、日ごろお付き合いのある都市経済学の高名な先生が今般のコロナ禍に寄せてまとめたエッセイを見せてくれ、その中にイタリアの衛生官の話が出てきたのです。そこでその先生にお聞きしたところ、チポラの本に載っているから、古本屋で探してみてくださいと。あいにく、版元では品切れということでしたが、古本で何とかゲットした次第です。
今回のコロナ禍をきっかけにペストなど過去の感染症のパンデミックの歴史に興味を持ち、そこから『いいなづけ』を介して、本書に到達しました。まさに、本の”感染”?でしょうか。
読書というのは、興味次第で次から次へと新たな本を引き寄せてくれるものですね。これこそが読書の醍醐味というものでしょうか。
統括研究主幹 市川 嘉一 (2020.5.12記)